2010年5月14日金曜日

K君の「西田幾多郎の他者論」を読んで


専門学校の友人であるK君から、大学時代の卒論を手渡された。内容は西田幾多郎の論理から、他者論を展開するという内容だった。わたしは浅学で西田幾多郎について、基本的になことすら知らなかったので十分に楽しく読んだ。

K君の論旨は、「絶対無の場所」という「私」の根拠は無であって、「私」と「他者」を区別するものは否定性による限定によってだけあり、「私」と「他者」の間には区別もなく無限のグレースケール(白と黒の間に広がる無限の色彩)が存在する、がその無限の「場所」に立つことでしか、「私」と「他者」を考えることはできないであろう、といっところだ。
 
 わたしはK君の卒論を読んで、彼の関心は二元論では回収できない領域だと思ったので、メルロ・ポンティを読むと面白いだろうなあ、と伝えたら、K君も卒論を書いて二元論では掬いきれない、感覚や現実があるよな、とお互いに意見合致できたのでした。
 
 今回、初めて西田幾多郎がどういう考えを展開した人物か知ったのだが、やはり時代かベルグソンのように明るさを感じる形而上学の要素が多分にあって、論理で数式を解くかのごとく読むというより、直感的な認識のやり方で著作に興味を持った。20世紀の始めの人たちは皆、東洋にしろ西洋にしろ従来認識方法を1から考え抜いた人ばかりである。神が死に、代用として「言葉」を信仰するしかなかったと揶揄されるけれど、「言葉」だけ特権的に使われることに引っかかるものを感じても、「言葉」が虚構の楽しさを伝えてくれることはわたしの一番奥底にある。トーマス・マンの初期短編の『幻滅』にこんな一節がある。

「生まれてはじめて海というものを眺めた日のことを、私はよく思い出します。海は大きい。海は広い。私の視線は、岸から沖のほうへさまよって行って、開放せられることを望んだのです。しかるに、その先には水平線がありました。なぜ水平線なんてものがあるのでしょう。私は人生から無限を期待していたのです。」

 「言葉」を知ってしまったからこそ、抱えてしまった悲しみの経験。「言葉」だけでその人生を終えていたら、無限に広がっていく海の「影」を思っていられた喜びの夢。夢は実現し経験しなければ、意味はないのであろうか。それは人生次第、わたしは選択しないということに喜びを感じていたい。